理論を教える多くの音楽講師たちに私が言いたいのは、教室では、自分はミュージシャンである“前に”講師なのだと自覚して欲しいということだ。表現活動一本で生活できないコンプレックスから、自分はミュージシャンでもあり講師でもある、と2本立てを強調したい人もいるかも知れない。(講師ではないと開き直るヤツは問題外である) でも目の前に生徒さんがいるとき、相手が何に対してお金を払っているのかを考えれば、貴方はミュージシャンでなくてもいいが講師ではなくてはならない。それを認めるかみとめないかで意識は大きく変わる。
必要以上にペコペコはしなくていいが(生徒さんも落ち着かないだろう)、常にカリキュラムを見直したり、あたらしい教材のことを考えたり、質の高いレッスンをするための情報収集を怠らないようにしたっていいんじゃないか、とごく自然に思う。
勘違いしないでもらいたいのだが、教えることに熱心な人が皆無だとは私は思っていない。教える技術はどうすれば向上するか? という科学的な発想がなさすぎると言っているのだ。大抵の熱心な講師は自分の熱心さで安心してしまうのか、それ以上踏み込まない。
気持ちが熱ければ素人でもいい・・・わけはない。だって、美味いラーメンを食べたい、と思っている人は、気持ちだけはこもった素人のラーメンを食べたいとは思っていないはずだ。試行錯誤の末たどり着いた細かいワザをいくつも組み合わせた、プロの職人のラーメンを食べたいと思う事こそが、美味いラーメンを食べたいという思いそのものだろう。そのラーメン職人が、実際にラーメンを作る行程でいちいちイキリ立たず淡々と作業していたとしても、もとのレシピがほとばしる情熱によって編み出されたものであればそれでなんの不足もないはずだ。
もしも気持ちがこもっていれば素人のラーメンでもいい、と思う人がいたら、その人が求めているのは人であってラーメンではない。人を求めた結果作曲塾にたどり着く人がいたらそれはそれでうれしいけれど、何かを教える商売である限り、誰かが作曲塾を選ぶ理由はやはり教え方が上手だから、であって欲しい。
「前に教わった先生は作ったものをどんどん直していくだけで、何故そうした方がいいのかをちゃんと説明してくれなかった。今は作曲塾で教われてすごく楽しい」とか「何度もトライしては挫折した理論が、やっとちゃんと頭に収まりました」とか言ってもらうことが幸せなのだ。といっても言葉は一番の喜びじゃない。一番は、最初何もできなかった生徒さんがちゃんと完成させた作品の数々。生徒さんの思い出はただの映像じゃなくて音楽付きだからなかなか感動的で、印象深いものは時折口づさんでしまう事もあるのです。